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【メニューイン初来日】 悪魔のトリルに震え涙した日

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14年ぶりに聴くヴァイオリンの本当の音色

1951年(昭和26年)9月18日、初来日したメニューインが、日比谷公会堂のステージに立った。

聴衆は2700名。内外の著名人も多く駆けつけた。

来賓席には、リッジウェイGHQ総司令官夫妻や吉田茂首相夫妻の姿もあった。

吉田首相は、この9日前に、全権代表としてサンフランシスコに赴き、連合国との講和条約に調印していた。

日本が第二次大戦後の占領下を脱し、独立国としての第一歩を踏み出そうとしていた時だった。

アドルフ・バラーのピアノ伴奏で、この日メニューインが演奏したのは、タルティーニ:悪魔のトリル、フランク:ソナタ、パガニーニ:協奏曲第1番。そして、バッハ:無伴奏パルティータ第2番 “シャコンヌ” 。

それは1937年(昭和12年)のミッシャ・エルマンの来日以来、日本人が14年ぶりに聴いた海外の著名ヴァイオリニストの生の音だった。

photo : Wikimedia Commons

小林秀雄「メニューヒンを聴いて」

翌9月19日の『朝日新聞』紙上で、文芸評論家の小林秀雄が、その感動を以下のように記している。

会場にあふれる聴衆は熱狂していた。久しい間、実に久しい間わが国の、音楽の好きな人達は、ヴァイオリンの本当の音色というものを聞かずに暮していたのである。これは、恐らくメニューヒン氏には想像も出来ない事であろう。

第一日目の演奏を聴いて、何か感想を書くことを約したが、きっと感動してしまって何も言うことがなくなるだろうと考えていた。その通りになった。タルティニのトリロが鳴り出すと、私はもうすべての言葉を忘れて了った。バッハだろうが、フランクだろうが、それはもうどうでもよい事であった。さような音楽的観念は、何処へやらけし飛び、私はふるえたり涙が出たりした。魂を悪魔に渡してから音楽を聞くということもある。タルティニはうそをついたのじゃあるまい。たゞ、私は夢の中で、はっきり覚めていた。そして名人の鳴らすストラディヴァリウスの共鳴盤を、ひたすら追っていた。あゝ、なんという音だ。私は、どんなに渇えていたかをはっきり知った。

メニューヒン氏は、こんな子供らしい感想が新聞紙上に現われるのを見て、さぞ驚くであろう。しかし、私は、あなたの様な天才ではないが、子供ではないのだ。現代の狂気と残酷と不幸とをよく理解している大人である。私はあなたに感謝する。

冷静に「音」を聴き取る

『朝日新聞』に掲載されたこの小林秀雄の感想に比べて、当時の音楽評論家らのメニューインの演奏に対する評価は、あまり芳しいものではなかったようだ。

「確かに、『会場にあふれる聴衆は熱狂していた』のだが、少なくとも、日本の音楽評論家の中で、『ふるえたり涙が出たりした』などと書いた人は、一人もいなかったのである。」(杉本圭司氏「小林秀雄實記 最後の音楽会」より)

とはいえ、小林秀雄の耳は、待ちに待った海外アーティストの実演に接した過剰なほどの喜びに浸る中でも、決して麻痺することなく本質を聴き捉えていた。

その時のメニューインの演奏について、後に『新潮』1952年1月号に発表した「ヴァイオリニスト」という随筆の中で、小林はこう書いている。

タルティーニの最初の音が意外に悪かったものの、弾き続けるうちに調子が出て、パガニーニの協奏曲では楽器が完全に鳴っていた。

そこでは、演奏会場で「音という事件」に直接遭遇したことにより生じる感慨に言及している。

それは、美質の多くの部分が音を創り出すことにあるヴァイオリンいう楽器の特性に深く触れるものだった。

ヴァイオリンにおいては、技巧や曲の解釈云々の前に、あるいはそれ以上に何よりも、音が問題なのだ。

なぜ最初のタルティーニでは音が悪かったのか?

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当日のメニューインの演奏会においては、実はこのヴァイオリンの音にとっての決定的な不幸があった。

演奏会の5日後の『朝日新聞』(1951年9月23日付)で、近衛秀麿が次のように書いている。

楽屋で聴いて耳の裂けるような、およそ日本人の十倍もあろうと思われるほどの強烈なストラディヴァリの音量が、あの舞台では天井に抜け、壁に吸われ、四面に散ってわれわれの耳に達するのは、その二、三割にも過ぎない。

さらには、

換気の悪い場内の蒸しブロのような人いきれと湿気とは、四囲の状況の変化に敏感な高級の弦楽器には禁物だ。

近衛秀麿は、東京都内に音楽専用ホールを作るべきだと、長年主張し続けてきた人である。

小林秀雄も、この不幸をきちんと聴き取っていた。

あれほど技を練り、場なれた名人が、初めのうちは調子が出ないと言う様な事ではおかしい。やはり、それは、弾いている間に次第に克服するより他はない湿度という物理的条件によったのだろうと思っている。(「ヴァイオリニスト」)

かつてヴァイオリンを習ったこともある小林秀雄。

ヴァイオリンを愛し、ヴァイオリンの本質を熟知した人の演奏評は、ヴァイオリン学習者にって実にしっくりとくる。

photo by 663highland

小林秀雄 最後の音楽会

一九八二年十二月二十八日、夜―。小林秀雄はもはや、音楽を聴く体力も気力も失い、病床に臥せっていた。その小林秀雄の耳に、戦後まもなく、日比谷公会堂で聴いて震えたあのヴァイオリニストの音色が、テレビの電波に乗って届いたのだ。彼は身を起こし、一階に降り、妻と並んで奇蹟のプログラムに耳を澄まし続けた…その二ヶ月後であった、一九八三年三月一日、小林秀雄は八十年の生涯を閉じた。愛読三十余年の気鋭が描く近代批評の創始者の生涯にわたる音楽との宿縁!

小林秀雄 最後の音楽会

メニューイン・イン・ジャパン1951


小林秀雄をも感激させたメニューインが、1951年の滞日中に、日本ビクターのスタジオで録音したもの。日比谷公会堂での実演に比して、音は素晴らしい。オリジナル・テープからのリマスタリングで、当時のメニューインがストラディヴァリウスから引き出してみせた美しい音色が満喫できるうえに、ショー・ピース系の作品における艶っぽい歌い回しが堪能できる点も魅力的。

メニューイン・イン・ジャパン1951


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