1923年(大正12年)9月に起こった関東大震災の前後に、ふたりの偉大なヴァイオリニストが相次いで日本を訪れた。
ひとりはフリッツ・クライスラー。
1923年5月1日から5日間、帝国劇場で来日リサイタルを行った。
ギャラはワンステージ5,000円。当時の日本では家1軒が軽く購入できるほどの破格の金額であったという。
もうひとりは、そのクライスラーをして「我々に残されたのはもはや楽器を投げ捨てることだけだ」と言わしめた、若き日のヤッシャ・ハイフェッツ。
ハイフェッツの来日は当初1923年9月に予定されていたが、9月1日に起こった関東大震災が東京に壊滅的な被害を与え、9月中の来日は不可能となった。
この大震災でクライスラーが5月にリサイタルを行った帝劇は、外郭を残して焼け落ちてしまった。
ハイフェッツ、廃墟の東京に降り立つ
ハイフェッツはまさに大震災の日、9月1日にニューヨークから東洋への船旅に赴こうとしていた。
弱冠21歳。当時すでにその超人的な技巧と多彩な音色、峻厳な音楽性で世界のヴァイオリン界をリードする存在となっていた。
旅の途上、関東大震災の報に接したハイフェッツは船内で慈善演奏会を開催し、義捐金3,000円を集めたと言われている。
彼は1917年、ロシア革命の混乱に揺れるロシアから、シベリア経由で母・妹と共にアメリカに亡命している。その途中、一家は日本に立ち寄り、2週間ほど滞在したという。
ハイフェッツが震災で廃墟と化した東京への哀惜の念を強く感じたであろうことは想像するに難くない。
ハイフェッツはまず中国に向かい、その後日本の神戸へ。
11月7日、震災から2ヶ月後の東京に降り立った。
11月9日から3日間行われたリサイタルは、帝劇が焼失したため、帝国ホテルの宴会場で催された。
リサイタルでは、ヴィターリ『シャコンヌ』、ヴィエニヤフスキ『ヴァイオリン協奏曲第2番ニ短調』、シューベルト『アヴェ・マリア』などが演奏された。
日比谷公園で慈善演奏会
1923年(大正12年)11月12日午後2時。
折りからの雨は止んだが、北風が身にしみる。
急遽企画されたハイフェッツによる震災慈善演奏会を聞こうと、日比谷公園大音楽堂に詰めかけた聴衆は約3,600人。
前日まで3日間にわたり行われた帝国ホテルでのリサイタルの入場料は10円であったが、その日の慈善演奏会は1円に値下げされた。
この演奏会の入場料収入から諸経費の800円を引いた残り2,800円全額が、ハイフェッツから東京の罹災民のために寄付されることになっていた。
この日の演目はサラサーテ『ツィゴイネルワイゼン』、シューベルト『アヴェ・マリア』、ショパン『ノクターン』など、十数曲であった。
中でも震災直後の野外演奏会を象徴していたのは、ヘートーヴェン(アウアー編曲)の劇音楽『アテネの廃虚』よりの2曲(『苦行僧の合唱』と『トルコ行進曲』)が演奏されたことである。
大震災で壊滅的な被害を受けてまだ2か月。その傷跡も生々しい東京への鎮魂と癒し、そして復興へのエールの思いがあふれた選曲であった。
予定曲をすべて弾き終わった後、寒風をものともせずその名演に酔いしれていた東京市民に向け、ハイフェッツは万感の思いを込めて、『君が代』をゆっくりと2度演奏した。
聴衆は皆立ち上がり、「ハイフェッツ万歳」を唱和したという。
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ツィゴイネルワイゼン~ヴィルトゥオーゾ・ヴァイオリン
ハイフェッツのスーパー・テクニックが堪能できる「ツィゴイネルワイゼン」やワックスマンの「カルメン幻想曲」もさることながら、ショーソンの「詩曲」の、澄み切った美音で奏でられる切ない歌もまたたまらない。8曲のどれを取っても、不世出のヴァイオリニスト、ハイフェッツの、そして、ヴァイオリンという楽器そのものの凄さが凝縮されたような極めつきのアルバム。
ツィゴイネルワイゼン~ヴィルトゥオーゾ・ヴァイオリン(日本独自企画盤)
ハイフェッツ ザ・ラスト・リサイタル
10年間リサイタルから遠ざかっていたヤッシャ・ハイフェッツが、教鞭をとっていた南カリフォルニア大学音楽部の学生と教授陣の勉学の資金調達のために、1972年に開いた慈善コンサートの模様を収めたライヴ・アルバム。当時71歳のハイフェッツが、往時と変わらぬ完璧な演奏を披露した作品。