1958年(昭和33年)「第27回音楽コンクール」(現在の「日本音楽コンクール」)の本選会の日はあいにくの雨模様となった。
バイオリン部門の出場者は雨天の湿気の影響からか、調弦にひどく苦しんだという。
本選の審査結果を特集した「毎日新聞」(1958年11月4日付東京本社版)は、「“狂った調弦”-雨天の影響もあったが」との見出しで、コンクール審査委員の黒柳守綱氏(*注)のバイオリン部門に関する審査評を掲載している。
「あれではダブルストップの早いパッセージなど、相当に勉強してあっても正確な演奏は不可能に近い。途中で直そうとした人もあったが十分ではなく、満点が出なかった原因の一つになった。(中略)外来の大家は、たとえ雨天でもあのようには狂わさないのだから、それぞれよく研究してほしい。」
この年、「音楽コンクール」の審査方法は従来の「順位投票方式」から「得点方式」に変更された。
前年までは、各審査員が記名で1位~3位に推す出場者に投票し、得票数の多さで順位を決定していたが、この年から変更になり、各審査員が各出場者を30点満点で採点し、総合点で順位を決定する「得点方式」となったのである。
これは現在の「日本音楽コンクール」における25点満点による採点方法のさきがけとなった。
*注)黒柳守綱(くろやなぎもりつな)氏(1908~1983年)は女優の黒柳徹子氏の父。戦前は新交響楽団(現在のN響)、戦後は東京交響楽団のコンサート・マスターを歴任した。現在、「日本音楽コンクール」弦楽器部門においてコンクール委員会で選定された本選出場者に対し、黒柳守綱基金より「黒柳賞」が贈られている。
得点のバラツキを調整
この30点満点の「得点方式」には、次のような注釈がつけられている。
「出場者の得た平均点より五点以上離れた採点をした場合は自動的に平均点プラス(あるいはマイナス)五点のところまで修正されるという規約が定められている。」(前出「毎日新聞」)
平均点が20点となる出場者に28点をつけた審査員がいた場合は、その点は25点に下げられるのである。どの審査員からもまんべんなく評点を得た出場者が有利になる方式で、これは現在の「全日本学生音楽コンクール」の規定書で公示されている採点方式(各一人の最高点・最低点カットによる平均点方式)と基本的には同じ考え方だ。
この年のバイオリン部門では、1人の審査員の採点について上記の規約に基づく修正が入った。
5人の出場者に対してその審査員がつけた採点は「10点・15点・15点・5点・7点」。平均点の「25点・25点・24点・21点・25点」とは10~10数点もの開きがあったために、すべて平均点マイナス5点に部分修正されたのだ。
これは標準的な演奏をした場合の基準点レベルについて、審査員間でのすり合わせがないまま得点がつけられことによる、導入初期の混乱だったと思われる。
翌年からは採点修正が行われた形跡はなく、基準点レベルに関する一定のコンセンサスが審査員間で成立したようだ。
- 点数は25点満点とし、小数点以下は認めない。
- 採点集計にあたっては、全審査員の採点結果のうち最高・最低点(各1人ずつ)をカットした点数に、第2予選(第3予選のある部門は第3予選)で獲得した点数の60%を加算する。
- 順位は、上記を合算した点数の高得点者順とし、入賞者は原則として3人以内とする。
- 審査会で討議後、第1位、第2位、第3位の順位を決定する。演奏レベルなどを勘案して必ずしも原則通りの順位を選出しなくてもよいが、同点は同位とする。
「第27回(1958)音楽コンクール」バイオリン部門 入賞者 ※敬称略
第1位 建部洋子(当時16歳。その後、ギルバート・ヨーコ・タケベ。NYフィル第1ヴァイオリン、マンハッタン音大教授を務めた。指揮者アラン・ギルバート氏の母で、五嶋龍氏の師。)
第2位 宗知忠(=宗倫匡氏。当時15歳。59年「第28回音楽コンクール」第1位、63年ジュネーブ国際第2位、64年パガニーニ国際第4位、67年ロン=ティボー国際第5位。英国王立音楽院教授を務めた。)
第3位 石井志都子(当時16歳。55年「第24回音楽コンクール」第2位-13歳。59年・61年ロン=ティボー国際第3位、63年パガニーニ国際第3位。桐朋学園大教授を務めた。)