キリスト教と日本人の心性をテーマにした『海と毒薬』『沈黙』『深い河』等の作品で知られる、作家 遠藤周作(1923~96)の未発表小説が見つかった。
『影に対して』と題された自伝的色彩の濃い作品で、長崎市の遠藤周作文学館に遠藤家から寄託された資料の中から発見されたという。
作品の内容について、朝日新聞デジタルの記事(2020/6/26付)は、次のように伝えている。
「小説家になる夢をあきらめ、探偵小説の翻訳で妻子を養う男・勝呂が主人公。幼いころに離別した亡き母の知人を訪ね、足跡をたどる。バイオリンの演奏に命を捧げる母の生き方に共鳴しつつ、平凡な生活に埋没する自身への苦悩が描かれている。」
遠藤周作の母、遠藤郁は、東京音楽学校でヴァイオリンを専攻した。
師事したのは、安藤幸(兄は幸田露伴、姉は幸田延)。
その後、諏訪根自子も教えたアレクサンドル・モギレフスキーにも師事した。
遠藤周作は『母なるもの』という作品で、次のように書いている。
「六畳ほどの部屋のなかで母はヴァイオリンの練習をやっている。もう何時間も、ただ一つの旋律を繰りかえし弾いている。ヴァイオリンを顎にはさんだ顔は固く、石のようで、眼だけが虚空の一点に注がれ、その虚空の一点のなかに自分の探しもとめる、たった一つの音を掴みだそうとするようだった。」
遠藤郁は、夫と離別して満州の大連から周作を連れて帰国した後、兵庫県の小林聖心女子学院で音楽教師を務めた。
その後、キリスト教信者になって、宗教と芸術に関する思索を深め、ヴァイオリンをやめて、グレゴリオ聖歌の研究に打ち込んだという。
音楽と宗教。聖なるものに一途に献身する母の姿。
それは、遠藤周作の人生の鑑となり、創作の源泉ともなった。
今回発見された自伝的な小説は、そんな母にまつわる遠藤の原体験に新たな光を当てる作品になることだろう。
加藤宗哉著『遠藤周作』には、遠藤の母への強い愛情を物語る、あるエピソードが紹介されている。
遠藤周作は、50歳を超えた頃、ある外国人演奏家のコンサートに母の遺骨を抱いて出かけたことがある。
周囲に悟られぬよう遺骨を風呂敷で包み、さらにそれを厚い紙袋に入れ、両腕に母を抱きしめつつ、彼はモーツァルトのヴァイオリン・ソナタに耳を傾けたという。
今回発見された未発表小説『影に対して』は、7月10日発売の『三田文學』夏季号に全文が掲載される。