本当に実在したのか、他の音楽家の偽名だったのか?
ヴァイオリン学習者必修の佳曲、協奏曲イ短調(単一楽章)を作曲したジャン=バティスト・アッコーライ。
研究が進み、謎に包まれていたその経歴が明らかになってきた。
「フラマン音楽研究センター」の資料が明らかにする実像
ヴァイオリニアでは、アッコーライが残したとされるある曲から偽名説に基づく大胆な仮説を立て、それを2014年に歴史紀行ノンフィクションとしてまとめた。
今ではその記事は、「アッコーライ」と Google 検索すると、最上位に表示されるようになった。
しかしその後、ウィキペディア英語版には経歴に関する新説が現れ、さらにネット上では肖像画も流布されるようになった。
ウィキペディアの記述は、ベルギー・アントワープにある「フラマン音楽研究センター」(The Study Centre for Flemish Music)の研究者が著した経歴資料に基づいている。
アッコーライが確かに実在したことを示す資料だ。
以下、その研究者(Annelies Focquaert氏)の記述を一部紹介しよう。
アッコーライは、1833年4月17日にベルギー・ブリュッセルで生まれ、ブリュッセル王立音楽院でヴァイオリンを学んだ。
ナミュールの劇場オーケストラで第1ヴァイオリンを務め、またティーネンで教師の職を得た。軍隊に所属した時期もあり、ブルージュの騎兵連隊でビューグル(ナチュラルホルン)の第1の吹き手だった。
1860年にブルージュの音楽院でソルフェージュの教師となった後、1861~1864年にはヴァイオリン、1864年にはヴァイオリンとヴィオラ、1865年には弦楽四重奏を教えた。
その後もブルージュを出ることなく、教育活動以外では市立劇場などのオーケストラで第1ヴァイオリンを20年以上務めた。
彼の作品のひとつ 「テンプル騎士団(The Templars)」(劇伴音楽と思われる)は、ブルージュのオーケストラ・ソサイエティで上演された。
1896年には、音楽院のコンサート・ソサイエティの共同設立者となり、コンサートマスターを務めた。また、ブルージュルのブラスバンドの指揮者を数年間務めた。
1900年8月19日に、67年の生涯を閉じた。
固有名詞を含む具体的なデータに基づいて詳しく記述されており、もはやその実在を疑う余地はなくなった。
ジャン=バティスト・アッコーライは、その後半生をブルージュで過ごし、教育者として音楽家として、確かな足跡を残した人だった。
“Accolay, Jean-Baptiste”(”Studiecentrum voor Vlaamse Muziek vzw”)
アッコーライ:協奏曲イ短調 オーケストラ伴奏版を収録
「快く、伸びやかな楽曲。豊かな表現力とは最もシンプルな技巧から生まれる、という音楽の大いなる逆説のひとつを明らかにしている。」(”Itzhak Perlman Concertos from My Childhood” CD notes-輸入盤-より)
「バレエの情景」~パールマン・子供時代の思い出